神社

上高田氷川神社

カテゴリー:スポット情報, 上高田, 神社
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一の鳥居をくぐり、左手に手水舎。二の鳥居の左手にご由緒の説明があります。右手には、神楽殿があります。
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拝殿の右側には、境内末社として、「八幡社、稲荷社、天王社、天神社」が祀られています。
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左奥の高台には表忠碑が建てられています。
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須賀稲荷神社

カテゴリー:スポット情報, 江原町, 神社
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江原小学校の真ん前にある稲荷神社です。SN3I0562SN3I0563

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鷺宮八幡神社

カテゴリー:スポット情報, 白鷺, 神社
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西武新宿線鷺ノ宮駅南口を出て、橋を渡り、坂道を登って行くと、左手に鷺宮八幡神社が見えてきます。
入り口の鳥居は、突き当たりを左に曲がってすぐです。向かって左側に神社についての説明(御祭神など)があり、鳥居をくぐってすぐ右手にご由緒についての説明があります。
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二つ目の鳥居くぐってすぐ右手には、手水舎。その隣に、八幡神社や氷川神社などに多く見られる「力石」があります。
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力石の左手に、例大祭で奉納される「鷺宮囃子」が演奏される神楽殿があります。
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本殿の左手に六社様が祀られている支社があります。その六社様とは、<稲荷神社・御嶽神社・八雲神社・北野神社・粟島神社・疱瘡神社>の六社です。

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北野神社

カテゴリー:スポット情報, 中野, 神社
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SN3I0496中野駅北口を線路沿いに進み、もみじ山通りを左折し、1本目の道をまた左に曲がってまっすぐ行くと鳥居が見えてきます。

SN3I0498北野神社の隣には、「天神伏見稲荷」があります。京都の伏見稲荷を分祀したものと思われますが、天神様とお稲荷様の両方が祀られているのは、珍しいことです。

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北野神社の東側には、「天神町の石仏」が鎮座しています。
「青面金剛像」と「如意輪観音像」の2体は、いずれも元禄期に彫刻、造立されたものです。この石仏は、以前この北野神社の道路脇にあったと言われ、青梅街道から新井薬師(梅照院)に参詣する人々のための安全を祈り、道標としての役割もあったようです。

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一本槍稲荷神社

カテゴリー:スポット情報, 中野, 神社
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一本槍稲荷神社の名前の由来は、全くわかりませんが、勝手に推察してみました。

日本史の中で剣豪と呼ばれる人間は数多くいますが、実力・格式・知名度といった点で群を抜いているのが上泉信綱でしょう。名は初め秀綱といったらしい。通称は伊勢守。信綱はまずその出自からして他の剣豪とは異なります。名もない農民や在野の中から生まれてくることの多い剣豪たちの中で、彼はれっきとした武士、それも藤原氏の流れを汲む名門の家柄に生まれています。彼は上野国大胡の城主・上泉憲綱の子として生まれています。それ故に信綱の前半生は剣豪というよりむしろ武将として世に知られていました。上泉家は当時関東管領上杉家に属しており、信綱は上杉憲政の配下で箕輪城主・長野業正〔なりまさ〕のもとで、上野国(こうずけのくに)【※今の群馬県】を狙う武田信玄や北条氏康の軍と熾烈な戦いを繰り広げています。信綱は主君から「上野国一本槍」という感状を貰い、「長野家十六人槍」の筆頭に数えられるほど武勇には優れていたとされています。

この上泉信綱に送られた感状「上野国一本槍」が由来ではないでしょうか

一本槍稲荷神社とは、上泉信綱が上野国を狙う武田信玄や北条氏康の軍から国を守ったことから、一本槍で身を守る(家内安全・厄除け・必勝祈願・出世成功)と稲荷神(五穀豊穣)をミックスさせた神社であると私は勝手に推察しています。

現地の様子

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進学塾・四谷大塚中野校舎の脇

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五福稲荷神社

栄一稲荷大明神

龍山稲荷神社

カテゴリー:スポット情報, 東中野, 神社
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現地の様子

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北野神社・西町天神

カテゴリー:スポット情報, 中央, 神社
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北野天満宮

北野天満宮は菅原道真公をお祀りした神社の宗祀であり、国を鎮め守る神として平安時代中期多治比文子らによって北野の右近馬場に菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まりとされています。菅公は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍されました。永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得ました。寛弘元年(1004)の一条天皇の行幸を初めてとし、代々皇室の御崇敬を受け、江戸時代には寺子屋の精神的中心として菅公の御分霊がお祀りされるなど、「天神様」として親しまれ、以来学問の神様としての信仰は現在に至るまで受け継がれています。

北野天満宮ホームページより)

現地の様子

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神明氷川神社

カテゴリー:スポット情報, 弥生町, 神社
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現地の様子

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茅の輪

jinmyouhikawa4日本には、「茅の輪をくぐると悪疫から守られる~」という言い伝えがあります。これは神話の中で、スサノオノ大神が旅人に扮して宿を求めたとき、こころよく宿を提供した蘇民が、そのお礼にもらった茅の輪が由来のようです。「この茅の輪を腰につけると疫病がら免れる」と言われたとおり、貧しかった蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫は茅の輪に守られて繁栄し、反対に、裕福なのに宿を断った巨旦将来(こたんしょうらい)の子孫は疫病で途絶えてしまったといいます。

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蘇民将来伝説

蘇民将来伝説は、奈良時代に編纂された「備後国風土記逸文」に書かれている伝説です。それは次のような内容です。
その昔、北の海に住んでいた武塔神(むとうしん)は南の海の神の娘に求婚するため旅に出かけました。武塔神は南に向かって歩いていましたが、とうとう日が暮れてしまいました。
「これは困った。このままでは進めないではないか。今晩はここに泊まって、明日出発することにして、今夜はどこに泊まればよかろう」神が辺りを見回すと、遠くに明かりの漏れている家が二軒ありました。「これはありがたい」そう思って神はその家に近づきました。そこには将来という二人の兄弟の家がありました。兄は蘇民将来と言い、大変貧しい暮らしをしていました。一方、弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は大変裕福な暮らしをし、その屋敷にはたくさんの倉が建っていました。
神はまず弟の巨旦将来の家を訪ねました。
「旅の者ですが、一夜の宿をお願いしたいのですが」神は巨旦将来に一夜の宿を頼みました。しかし、巨旦は薄汚い身なりの武塔神を見て、泊めるのを惜しんで追い払ってしまいました。困った武塔神は、もう一方の兄・蘇民将来の家を訪ねることにしました。「旅の者です。南の国へ行く途中、日が暮れてしまい困っています。どうか一夜の宿をお願いします」それを聞き、蘇民は貧しい中にもかかわらず、喜んで武塔神を家に迎えました。そして、粟のご飯を作って、できる限りのもてなしをしました。それから何年かたった時のことです。武塔神は娶った南の海の神の娘と、その間に生まれた八柱の御子を連れて、一宿のお礼のため再び蘇民の家を訪れました。
「その昔は大変お世話になりました。ところで、弟の巨旦の家にはあなたの親族はいらっしゃいますか」「はい。私の娘が巨旦の妻になっています」「それでは、お礼の代わりにあなた方にこの茅の輪を差し上げましょう。これを腰の上に着ければあなたがたの家族は末永く栄えるでしょう。巨旦の妻になっているあなたの娘にも着けさせて下さい」武塔神は蘇民の家族に茅の輪を授け、北の海へ帰りました。その夜、二人の兄弟が住んでいた村に突然疫病が流行り、村人はすべて死んでしまいました。しかし、武塔神から茅の輪を授けられた蘇民の家族と巨旦の妻は不思議なことに助かったのです。そして再び武塔神が現われました。「私は須佐之男命である。将来再び疫病が流行したら、蘇民将来の子孫である、と言いなさい。そうすれば災難は免れるだろう」それ以降、村の人々は疫病が流行ると「蘇民将来の子孫なり」と口々に唱え、茅の輪を腰につけて疫病から免れるようになったのです。

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