曹洞宗多宝山成願寺

2010年9月6日

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歴史

開基である鈴木九郎の観音様との縁については「中野長者伝説」として今も語り継がれています。
鈴木九郎は、元は紀州出身で今から約600年前の室町時代に当地にやってきた貧しい馬売りでした。ある日、馬市に行く途中、浅草の観音様に「儲けたお金の中に”大観通宝(中国の昔のお金)”が入っていたら全て観音様に差し上げますので、馬が高価で売れますように。」と願かけをしたところ、馬市では馬は思わぬ高値で売れたそうです。しかし手に入れたお金は全部観音様に差し上げなきゃならない”大観通宝”。
その日の食べるものにも困っていた鈴木九郎は非常に悩みつつも約束を守り手にしたお金をすべて観音様に差し上げたそうです。
その後この信心深い行いが報われたのか、運に恵まれた鈴木九郎は財を成し、
「中野長者」といわれる大富豪となったそうです。

大富豪になった鈴木九郎は成願寺付近に邸宅を構えていましが、
一人娘の小笹が18歳の若さで病死したことに深い悲しみを受け、残りの人生を仏門に生きる決意をして小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受けた後、名を正蓮に改め僧侶となり、1438年に邸宅を寺院にしたのが成願寺の始まりでした。
寺院名は娘の戒名から当初は”正観寺”でしたが、江戸時代に”成願寺”と改められたそうです。

境内写真

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DSC04060「大観通宝」の瓦

DSC04071立派な本堂

DSC04070龍鳳閣 (開山堂)

DSC04063墓地前の六地蔵

一本松庚申塚(こうしんづか)

2010年7月2日

庚申塚(こうしんづか)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった57番目の干支です。
※干支の組合せは、60組あります。
庚申の組み合わせは、暦に使われていますから、庚申の年、庚申の月、庚申の日、庚申の時刻というものが存在します。そして庚申塚といわれる供養塔はそのほとんどが庚申の年に建てられているようです。庚申の年は60年に一度あり、最近では1980年(昭和55年)が庚申の年でした。

庚申信仰は、中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としています。
人の体内には「三尸(さんし)」という虫がおり、庚申の日の夜、その人が熟睡している間に天に上って、閻魔様さまの部下である「司命」に善悪の報告をするそうです。大きな罪は300日、小さな罪の場合は3日命が奪われる、とされます。ということは、庚申日ごとに常に徹夜をして眠らなければ、三尸は天に上って司命に人の罪過を告げることができません。ですから、「庚申の晩には身を謹んで夜明かしをすれば長生きをすることができる」ことを信仰し、それを実践することが、「庚申信仰」です。

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一本松の庚申塚は、明和年間(1764~1771年)に雑色村(現在の南台地域の旧村名)の人たちが共同で庚申塔と地蔵尊を祀ったことに始まると言われています。昔話では、この庚申塚の脇には一本松があり、触るとたたりがあると考えられていたようです。
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たから第六天

2010年6月18日

山手通りに面して、小さな観音像が祀られたドーム状屋根のきれいな祠(ほこら)があります。 この「たから第六天」は、中野長者伝説に登場する中野開拓者の鈴木九郎が成願寺を建立した際、土地の恵みと人々の幸福を願って奉安しました。約600年の間、周辺住民の人々に親しまれてきましたが、山手通りの拡張に伴い、場所をずらし、平成8年に現在の場所に移りました。「たから第六天」は成願寺の境外堂ですので、その山号「多宝山」にちなんでいます。
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第六天は欲望の世界に生きる魔王です。しかし、大きな力をもつ仏法の守護尊として、人々に信仰されてきました。仏教では、神々も迷いと欲望の世界に生きる者です。その天界に「六欲天」という六つの段階があり ます。最上位が「第六天」で、下天に化現する楽を自在に受けることができるということから「他化自在天(たけじざいてん)」とも呼ばれます。ここ「たから第六天」には、観音菩薩像が祀られています。観音菩薩は“慈悲”に溢れた菩薩です。観音様の功徳で、周辺の人々を救済するために「たから第六天」が建てられたものと思われます。
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野方一丁目地蔵

2010年6月17日

野方の住宅街の中にある「嫁菜の花美術館」の向かいの角地にある緑に囲まれた小さなお地蔵様です。赤い前かけがとても可愛らしい。住宅街に溶け込んでいるので、よく注意して歩かないと見過ごしてしまいます。
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「嫁菜」とは、夏から秋にかけて少し湿った田や道の端に群れて咲く花です。 丈は80cm位で薄紫の花色は、可憐な花です。嫁菜の花美術館といっても、嫁菜専門でも、草花専門でもない、普通の企画展をする美術館です。嫁菜の花美術館は、田中千禾夫(チカオ) ・田中澄江(スミエ) 両劇作家夫妻の長男の田中聖夫(タカオ) 氏と奥さんの三田恭子(ミタ キョウコ) さんが造り上げた美術館で、1988年12月に開館しました。現在、嫁菜の花美術館は、閉館中(?)のようでした。
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野方警察署前の辻地蔵

2010年6月16日

野方警察署前の一方通行の道路の角に、角柱に陽刻(浮き彫り)の地蔵尊が駐車場の脇に建っています。このお地蔵様は、子育地蔵として付近の人々がお花を添えているようです。寛保元年(1741)の建立で願主は浄念とあります。この場所は、野方街道の起点で交通量の多いところですが、不思議と事故は少ないようです。そこで感謝の意味を込め、また、子どもたちの健やかな成長を願って、毎年10月24日に地元商店会や近隣の人たちの手で供養が行われています。
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真言宗豊山派 清谷寺

2010年6月12日

西武新宿線に沿って、沼袋駅と野方駅の間にあるのが、真言宗豊山派の清谷寺です。
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境内から、何やら黄色い声が・・・。境内に入るとすぐ右手に「中野小鳩幼稚園」があったので納得。お寺が教育事業を行っているケースは、中野区には多いですが、このお寺も、そのひとつです。弘法大師様がにこやかに園児たちを見守っています。
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三丁目地蔵

2010年6月10日

庚申塔・地蔵尊・二十三夜碑からなるのが、野方にある「三丁目地蔵」です。「がんかけ地蔵」として、今もお参りする地元の人々が絶えません。
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籠原観音堂

2010年6月10日

中野区立緑野中学校のあたり、籠原は、丸山1丁目の古い地名で、その昔、祭りの籠が天高く舞い上がり、お祈りをして引き降ろしたという伝説のあるところです。かつて四体の石仏がありましたが、現在残るのは二体だけで、他は台座しか残っていません。残っている二体は、「馬頭観音」と「聖観音」です。
正面から撮影を試みましたが、大きな木の幹が邪魔してしまいます。
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北原神社

2010年6月9日

北原神社と書いて「きたっぱら」神社と読みます。閑静な住宅の並ぶ中に建つ北原神社。上鷺宮地域は、鷺宮八幡神社の北にある一面の野原という意味から、その昔北原(きたっぱら)と呼ばれていました。北原神社の名前はそこから付いたと言われ、今でも地元の人々を静かに見守っています。
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鳥居をくぐって、右手に小さな手水舎、左手に記念碑があります。よく見ると「大東京市記念碑」とあります。明治時代、東京府は府下を区と郡に分けて府税収入の多い地域を吟味選定の上、東京15区を設けました。大正時代に入ると東京への人口流入は進み、大東京と言われるようになりました。昭和に入り、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となり、東京都区部の範囲がほぼ確定しました。この記念碑は、東京が35区になったことを記念して建てられたものではないでしょうか。
資料がないため、北原神社の詳細は不明ですが、地元の人にとっては大切な神社であることが、境内の清掃が行き届いていることからもわかります。
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つげの木地蔵

2010年6月8日

上鷺宮の閑静な住宅街にある、1791年に鷺宮念仏講によって建立されたお地蔵さまです。終戦まもないころに何者かに盗まれてしまい、現在のお地蔵様は1954年に再建されたものです。 1945年頃まで、大きなつげの木が地蔵を覆っていたことから「つげの木地蔵」の名で地元の人に親しまれています。つげの木は、関東から九州にかけて分布する常緑小喬木で、庭木や街路樹として用いられ、将棋の駒の材料としても使用されます。
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